文章置き場(別館)

基本的にほとんど更新しない予定です。まとまった文章を書いた時だけ記事投稿します。本館→http://d.hatena.ne.jp/semimaruclimb/

『アナと雪の女王』はなぜ民族差別的だと非難されるのか?

 

はじめに

 2014年9月25日、私は下記の記事をアップした。 
 
アナと雪の女王』のクリストフはどう描かれているのか? 山男視点で解説【完全ネタバレ注意!!】(追記あり) 
http://semimaruclimb.hatenablog.com/entry/2014/09/25/000309 


 その後、ディズニー映画『アナと雪の女王』(以後「アナ雪」と表記する)は民族差別的であると批判し、アナ雪の制作陣がサーミ人のアドバイザーを一人たりとも置かなかったことを問題視する人が海外には少なからず存在することを知り、こうした意見を一顧だにしないことも良くないのではないかと思い始めた。ノルウェイ・サーミ協会の Aili Keskitalo 会長は、
「我々についての物語が、我々自身によってではなく、他者によって語られることが多い」
と述べている。ただし Keskitalo 本人によれば、このコメントはアナ雪のことを指しているのではないそうだ。 

 日本において、アナ雪考察のほとんどはジェンダー観点からのものであり、私の前回記事もそうである。ただ、アナ雪レビューの中には、仮に翻訳してサーミ人が読んだら激怒して当然と思われるものも散見されたので、私が前回記事を書いた際、サーミ人に読まれても大丈夫な記事に仕上げようと心掛けたつもりだった。だが改めて考え直してみると、アナ雪のヒロインは支配層の最上位であり、クリストフはその支配層に踏みつけられ搾取されてきた少数民族である。仮にアナ雪の舞台を日本に移したとすれば、クリストフはアイヌ人だろう。江戸時代であれば、クリストフは えた・ひにん あたりになる。現代日本が舞台ならば、クリストフはどこぞの下請け工場で奴隷のような待遇を受けている外国人技能実習生といったところか。アナとクリストフの権力差がありすぎて、クリストフは はなっからアナの抑圧者にはなりえない。逆にアナこそがクリストフの抑圧者であり、「抑圧をやめろ」という課題はアナの側にこそ突きつけられていたはずなのに、映画中ではその課題が全く未消化であることに気付いた。
 自分では被差別少数民族側に添った考察を書いたつもりであったが、所詮 私も支配者目線でしか物事を考えられなかったのである。 


カウトケイノの反乱

 サーミ人自身がサーミ人を描いた映画として、2008年に公開されたノルウェイ映画《Kautokeino-opprøret》(英語タイトル《The Kautokeino Rebellion》、日本未公開)を挙げておきたい。監督・脚本を手がけた Nils Gaup も、主演の Anni-Kristiina Juuso 及び Mikkel Gaup もサーミ人である。

・映画《Kautokeino-opprøret》予告編動画 

https://www.youtube.com/watch?v=W_3OPfBNQIs

 

 1852年、カウトケイノという町でサーミ人たちが暴動を起こした歴史上の事件を題材にした作品であり、暴動そのものよりも、暴動を生み出した社会的背景の描写に主眼を置いている。
 トナカイに引かせたソリで移動し、独特なスキーを使いこなし、トナカイを狙う狼を追い払い、極寒の中でテント生活を営み、テント内で煮炊きしたり体を洗ったりする当時のサーミ人生活様式が詳しく描写されている。同化政策が施行され、何重もの搾取によりサーミ人たちが借金漬けになり、それが支配層の資金源になっている状況も描かれている。主人公のサーミ人夫婦が何年にも及ぶ強制労働を命じられ、まだ幼い息子(予告編動画の最初の方に出てくる金髪少年)を捨てざるを得なくなるシーンもある。
 ノルウェイ社会のマジョリティであるゲルマン人からの反感を買いすぎないように配慮した作品であり、ノルウェイではかなりヒットしたらしい。アイヌ人の血を引く人が同種の映画を制作し、それが日本でヒットする事態などおよそ考えられないが。 


クリストフはなぜサーミ人でなければならなかったのか 

 実のところ、クリストフをサーミ人にする必然性があまり感じられない。トナカイの動物キャラを出しやすくなる、というメリットはあるかもしれない。今でこそトナカイ遊牧するサーミ人はほとんどいないが、かつてトナカイとサーミ人は切っても切り離せない関係で、前述の映画《Kautokeino-opprøret》でもその点は描写されている。
 もう一点、最近アメリカで厳しく追及されるPoc批判をかわすためのサーミ人設定ではないのか、とも考えられる。PoC とは People of Color(または Person of Color)のことで、映画・ドラマ・アニメなどの創作物において、登場人物が白人ばかりだと、激しい批判を浴びる(ただし、時代設定/地理設定上、白人だけになるのは当然である場合を除く)。サーミ人コーカソイドであるが、何世紀にも及ぶ差別の歴史を持つ少数民族であり、PoC的にはOKだろう。アナ雪制作者がサーミ人アドバイザーを置かなかったことにより、 PoC批判を逃れるためにサーミ人を利用はするが、当のサーミ人の意見など聞く耳を持たない、と非難されても仕方のない状況なのだ。
 民族差別問題を生半可に甘く扱うくらいなら、いっそのことクリストフもゲルマン人だということにして、PoC批判は甘んじて受ける、という方向性もあったのだが。


サーミ人差別の歴史と現状

 サーミ人差別について、日本語で読めるウェブページを紹介しておく。 

 コンパクトにまとまった記事はこちら。
・KOKEMOMO Sweden  
http://www.kokemomosweden.com/special/same.html 

 詳細な学術研究報告書はこちら。
ノルウェーとスェーデンのサーミの現状 -北海道大学大学院教育学研究院教育社会学研究室- 
http://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2013/05/NorwaySweden_saami2013.pdf 

 サーミ人は、スカンジナビア半島を中心に、ノルウェイフィンランドスウェーデン、ロシアにまたがる地域に住む先住民族である。サーミの人口が最も多く、且つ歴史的にサーミ人への弾圧が激しかった国が、アナ雪の舞台となったノルウェイだ。サーミ人は少し前まで「ラップ人」という蔑称で呼ばれていた。ニュアンス的には「土人」に近い侮蔑語らしい。
 現代のサーミ人の多くは、通常の北欧人として生活している。血統的にはサーミ人であっても、自分がサーミ人であることを否定する人は少なくないし、否定の理由も様々である。現在の北欧三国は世界トップレベルの人権先進国であり、生活上何の不利益もなく、自分がサーミ人であることを意識したことすらない、という理由で否定する人もいる。そうは言ってもまだまだゲルマン人が優等でサーミ人が劣等であるという意識も根強く、自分を下位に置きたくない、という理由でサーミ人であることを否定する人もいる。そして、過去の同化政策でサーミ文化をことごとく否定され、1970年代までは断種の対象にもなった歴史的経緯ゆえに、自分がサーミ人であることを否定する人もいる。
 現在もなおトナカイの遊牧を続けている少数のサーミ人は、ツンドラの人口希薄地帯で生活している。普段は特にマジョリティとの対立もないが、森林開発や埋蔵資源関係で、サーミ人の存在が邪魔になることがある。かつてのように強制退去させることはできないが、代わりに、サーミ人の追い出し及び補償を求める声を封殺するために、サーミ人へのネガティブキャンペーンが張られることもある。
 

アナ雪のどこが問題視されているのか  

 以上、サーミ人差別の歴史と現状を踏まえた上で、改めてアナ雪を再考察してみると、やはり被差別少数民族に対してかなり無神経ではないか、と言わざるを得ない。
 トナカイの遊牧生活を送るサーミ人に対して、「臭い」「ノミ持ち」などの言葉が投げつけられる。それらが「直すべき欠点」であり、支配層であるゲルマン人が直してやるべきだ、と言われるのだ。これではまるで、かつてサーミ人に対して為されたの同化政策の正当化であるかのように受け取れる。一方、支配層側の「直すべき欠点」- すなわち、搾取と弾圧をやめること - は全く言及されない。フェアではないだろう。少数民族側の言い分として、「殴るし罵倒するし騙す」というセリフがあり、これは支配層の横暴を指しているようにも受け取れるのだが、言及対象を限定しない漠然とした弱い言い分ではある。
 前回考察を書いた時には敢えて目をつぶっていたが、クリストフと一緒にいる時のアナの行動が、野外でのNG行動だらけなのも改めて気になった。アウトドアにおいて、熟練者の指示に従わずに勝手な振る舞いをするのは非常に危険である。自分の命も他人の命も危険に晒してしまう無謀な行動をする人は実際に存在するので、ちょっとシャレにならないなあと。 

 かつてディズニーは、映画『ポカホンタス』において、先住民への迫害問題を矮小化したことを非難されたが、アナ雪でも同じ轍を踏んでしまったように思われる。作品中で民族差別問題に切り込まず、搾取を搾取として描かなかったために、かなりの事前知識を持った人でなければ、アナ雪を見て差別問題に気付くこことは難しい。アナ雪はサーミ人の児童労働シーンから始まり、次に同年代のヒロインたちが何不自由ない城で遊んでいるシーンに移るのだが、サーミ人差別を知らない観客のほとんどは、簒奪の構造に気付きもしないだろう。少数民族の労働力を安く買い叩くことによって一次搾取し、次に徴税により二次搾取し、それが貴族の裕福な暮らしを支えているのだが。
 立場の対等な者同士、もしくは権力を持つ側が持たざる者に対して献身した場合、それは崇高な行為として美談にもなるだろう。だが権力を持たない側が権力者に対して献身しても、それはただの搾取となる。作品中で、サーミ人のクリストフは随分と搾取されている。道案内の依頼だったはずが、途中からレスキュー隊員役をやっているし(当初の契約と異なる過重労働は搾取の基本)、支配層であるアナと関わって余計に貧困に陥っている。崖のシーンにおいても、クリストフはなんとかアナに手を伸ばそうとして無理な姿勢を取ったのが災いして頭を強打して気絶しかけている一方、アナはザイルを解いて自分だけ助かろうとしている。そして、財産をごっそり失って身一つになってしまったクリストフは、何の報酬も支払われないまま厳寒の戸外に締め出され、野垂れ死に寸前にまで追い込まれる。実際の歴史でも、少数民族の扱いなどそんなもので、せっかくリアリティを出したのに、それが「不当な収奪」として描写されているようには見えない。クリストフはアナを好きになるどころか、それこそ「カウトケイノの反乱」みたいに暴動を起こしても不思議はない。ラストでようやくまともな対価が支払われたのがファンタジーではあるが。 
 
 最後に、下記のウェブページからの引用で締めくくりたい。引用文中の「研究」の語句を「(映画などの)エンターテーメント」に置き換えてみたらどうなるか、考えさせられる。 

先住民族サーミを伝えること
 ~伊勢丹クリスマス・キャンペーン2014『Life is a Gift』に協力して~
 立教大学 観光学部 交流文化学科教授 葛野浩昭
http://www.rikkyo.ac.jp/tourism/faculty/staffletter/201502/index_01.html

と言うのも、苛烈な抑圧の中で生きることを強いられてきた、そして今も現に強いられている先住民族を研究する私たち文化人類学者は、自らの学術的な研究を、先住民族自身の政治的な復権運動から切り離した形で、学術至上主義的に行なうことの理不尽さを実感し反省しているからです。もちろん学術の発展も大切ですが、先住民族の復権はもっと切実な人類全体の社会的課題です。学術的レトリックを駆使することで自らの研究活動に「価値中立性」や「客観性」を漂わせることも可能で、そういったことは研究者にとって必要なスキルでもあるのでしょうが、先住民族社会に長期間、そして何度も繰り返して居候をお願いし、人々のお世話になりながら研究を進めているフィールドワーカーにとって、それは決して好ましい姿勢ではありませんし、そもそも「人の生き方」としても後ろめたさ無しに選択できる姿勢ではありません。先住民族研究においては、学術的な研究と「社会広報」的な作業との間に優劣の差などなく、肝心なのは、まずは先住民族の利益や未来のために、先住民族について何を、どのように広く社会へ伝えるか、を自省的に判断・実践し続けることの方でしょう。